ローマを去った才能の行方
- おしょう
- 2021年7月5日
- 読了時間: 14分
EURO2020のハンガリー代表にロイク・ネゴがいた。ローマで試合に出たことはなく、少なくとも日本で視聴できるリーグには在籍していないため、ロマニスタであっても普段彼を思い出す機会は滅多になかっただろう。しかし、一部のファンはたしかにネゴの登場に注目した。
選手にもよるが、過去に在籍した選手を思い出す機会はなかなか巡ってくるものではない。そうであるならば、能動的に微かな思い出を掘り起こし、彼らのキャリアを知ろうとするのもいいだろう。今回は、なにかしらの活躍をしたことでローマが他チームから獲得したものの、トップチームでの出場機会がなかった元有望株、とくに目の届きにくいところにいる選手たちにスポットを当てていく。

ファビオ・ザンブレラ
【生年月日】1990年4月7日
【国籍】イタリア
【ポジション】センターフォワード
【在籍期間】09-10
【前所属】ニューカッスル・ユナイテッド
2009年夏の移籍市場閉幕直前、資金力不足のローマはファビオ・ザンブレラを無償レンタルで獲得した。優秀な選手の発掘に長けるアタランタユースの出身で、U-19イタリア代表では2008年のヨーロッパ選手権に招集された選手だ。ステファノ・オカカとアルベルト・パロスキが形成する2トップの控えではあったが、3試合に出場して準優勝を経験した。
当時のスパレッティ監督はリーグ戦で開幕2連敗を喫して辞任したが、もともと財政難をはじめとしたローマの運営状況に不満を抱いていたとされる。ルート・ファン・ニステルローイの獲得に失敗した結果としてザンブレラを獲るしかなかったようなチームを指揮するのは厳しい、といったところだ。
下部組織では加入当初それなりに得点を重ねたが、負傷離脱もあって尻すぼみに終わり、所属していた1年間でトップチームでの出番はゼロだった。なお、当時のプリマヴェーラにはアレッサンドロ・フロレンツィもいた。
そのままレンタル元のニューカッスルに戻ったが、彼のキャリアは膝の負傷によってさらに難しくなってしまった。2011年夏にニューカッスルを退団した際には、チッタデッラ(当時セリエB)やユーヴェ・スタビア(当時セリエB)、ルーマニアのクルージュから関心が寄せられたものの、身体的なコンディションが不安視されて移籍は成立しなかった。
そのあとはイタリアのクラブを渡り歩くことになるが、11-12にカルチョ・ヴァルカーレ(当時イタリア6部リーグ以下)、12-13にバッラリアIM(当時イタリア4部)、13-14にパラッツォーロ(当時イタリア6部以下)、14-15にグルメレーゼ(当時イタリア6部以下)という小さなチームに在籍した。ちなみに、ニューカッスルのあとにはブレシア(当時セリエB)に所属したという記録もあるが、真偽は定かでない。14-15終了時(当時25歳)を最後に彼の所属歴はどのメディアでも記録が途絶えており、現在は31歳だが引退扱いにしているデータもある。それが事実である可能性は高そうだ。

シルビオ・アノチッチ
【生年月日】1997年9月10日
【国籍】クロアチア
【ポジション】左サイドバック/左サイドMF
【在籍期間】14-15 〜 18-19
【前所属】NKオシイェク
2014年夏にローマがNKオシイェクというクロアチアのユースチームから獲得したレフトバック。加入当時は若手世代のクロアチア代表選手で、各世代の合計で5年間プレイしていた。ローマに移籍してからもしばらくは招集され続けている。
加入初年度、プリマヴェーラのUEFAユースリーグでベスト4進出に貢献すると、2年目の始めにはトップチームの練習に招待された。「もちろん緊張はしていたが、素晴らしいものだった。多くのサッカー選手、とくに若手選手にとっては夢を見ることしかできないようなことが、自分には現実になったんだ」と話している。しかし、シーズン開幕前のICCではベンチ入りしたものの、新シーズンが始まるとまたプリマヴェーラに戻された。
アノチッチが苦しむのは3年目以降。2017年夏にジェノアにレンタル移籍することになったが、メディカルチェックの結果を受けてそれが頓挫。恥骨と内転筋に炎症があったことが理由で、そのうち尻や脊椎にまで広がっていくことになる。ジェノアのドクターは、3ヶ月はトレーニングをするなと検査の際に忠告した。
アノチッチはローマでトップチームの練習に再び参加しており、当然ながらドクターもそばにいたのだが、何も問題はないとしていた。そこで当時のSDであるモンチに相談して、3人目の意見を求めてクロアチアのボリッチ医師のもとに向かった。ボリッチ医師によると、治療の過程で身体がどのように反応するかによるが、2~9ヶ月の休息が必要だと説明した。
しかし、ローマのドクターはやはり異常なしと判断したため練習をしなければならず、モンチとも数回話し合ったがクロアチアでの治療には行かせてもらえなかった。そして再度プリマヴェーラに戻ったが、トレーニングを続けているとやはり身体が痛み出し、そこでようやくドクターは最低2ヶ月はプレイできないと伝えた。2ヶ月後に練習を再開したが、またしても痛みが出たので2週間の再離脱となり、そしてまたトレーニングに戻ることになる。しかし、そのときには脊椎が壊れてしまっており、手術を受けることになった。まだ若い彼にとって、非常に痛々しく、困難な時期だった。
アノチッチによると、ローマのドクターが問題は何もないと主張していて、モンチもその人を信頼していたため、クラブが寄り添ってくれたとは思えなかったという。なお、この一件のあとにそのドクターは解雇されている。
ボリッチ医師の下で手術をして一件落着、というわけにもいかなかった。リハビリを重ねて徐々にトレーニングに戻ろうとしても、脊椎の痛みは再発を続けた。アノチッチの精神は限界に近づき、引退するつもりでいたが、代理人のミロスラフ・ビチャニッチが新たにカプリカ医師を連れてきた。クラブは当初アメリカでの手術を勧めたが、話し合いを経てクロアチアでおこなうことを許可。
手術の1ヶ月後、ローマに戻った。フランチェスコ・トッティは復帰直後のアノチッチに近づいて、代理人や医師がどのようにサポートしていたのかと尋ねた。そのことについて、アノチッチは「トッティがとても心配してくれたことに感謝している。ブルーノ・コンティも私のことを忘れていなかった」と述べている。
彼は28ヶ月間も試合に出ることができなかったが、2019年9月にレンタル先のHNKチバリアというクロアチア2部のチームで公式戦復帰を果たし、14試合に出場して2得点も記録した。2020年夏の移籍市場でローマからは完全に離れ、クロアチア1部の試合でもピッチに立っている。

ケヴィン・メンデス
【生年月日】1996年1月10日
【国籍】ウルグアイ
【ポジション】セカンドトップ/攻撃的MF
【在籍期間】14-15 (冬) ~ 17-18
【前所属】ペニャロール
得点力不足に陥った14-15、冬の移籍市場でローマが獲得した選手といえばヴィクトル・イバルボとセイドゥ・ドゥンビアであるが、同時期に獲得したアタッカーがもう一人いる。それが元逸材のケヴィン・メンデスで、「レコバ2世」や「ウルグアイのテベス」と称される選手だった。しかし、即座にローン移籍でペルージャに移っていた。
逸材とはいっても前所属のペニャロールではトップチームの試合に出場しておらず、脚光を浴びたのは2013年にU-17のW杯に出場したときだ。チームはベスト8で敗退となったが、背番号10を身につけて2ゴール・2アシストの結果を残した。当時ローマユースにいたアルトゥロ・カラブレーシとエリオ・カプラドッシがいたイタリア代表にも勝利している。この活躍もあって、彼自身のアイドルでもあるルイス・スアレスが、当時所属していたリバプールに獲得するようにと進言したという話もある。獲得を検討したビッグクラブ(大半がローマよりも強いような強豪)は片手で数え切れないほど多かった。
その大会の直後というわけではないが、ローマに移籍するよりも前にFIFATVでもヤングタレントとしてインタビューの様子が撮影され、欧州のチームで活躍してウルグアイ代表選手になることが夢だと語っている。しかし、代表チームでは2015年に開催されたU-20のW杯が最後の舞台となっており、ヨーロッパの1部リーグではスイスとウクライナで少し出場した程度だ。イタリアのセリエCでは24試合に出場したが、ほとんどが途中出場で、90分出場したことは一度もなかった。
アントニオ・サナブリアの成功を知った彼はスポルティング・ヒホンに行ってみたかったようで、クラブ同士での関心もないわけでもなかったが、メンデス自身が具体的な提案を受けることはなかった。結局ローマはスイスの2部に行くように勧め、彼もそれに従っている。
現在は母国のウルグアイに帰還して2部リーグで戦っており、当時を「ヨーロッパのサッカーに苦しんだ。ローマではデビューできず、適応するのにとても長い時間を要した。考えすぎずにプレイしているときはうまくプレイできたが、プロであろうとすると失うものも多かった」と振り返っている。また、17歳にして注目を浴びたことにも困惑していたと話した。まだ25歳だが、キャリアは好転するだろうか。

ロイク・ネゴ
【生年月日】1991年1月15日
【国籍】ハンガリー/フランス
【ポジション】右サイドバック/右サイドMF/セントラルMFなど
【在籍期間】11-12 〜 12-13
【前所属】ナント
若年代のフランス代表で合計40試合以上に出場した選手で、2011年に催されたU-20のW杯では5試合にフル出場して準決勝進出に貢献。その直後にローマが獲得しているが、トップチーム入りの壁は厚く、プリマヴェーラで過ごすことになった。なお、ハンガリー代表選手としてEURO2020に出場しているが、そのあたりのことは後述する。
ネゴは当時リーグ・ドゥに所属していたフランスのナントでプロ初出場を果たした選手だが、ナントに行く前にはインテルに加入しそうになっていた。しかし、彼の母親がフランスに留まるように求めたため、選択したのはナントだった。2007年にプロ契約を結び、2009年にナントが2部に降格したときにAチームに加わっている。下部組織にいた頃からの先輩でもある元ローマのウィリアム・ヴァンクールに続くような形で出場数を伸ばした。
チェルシーからやってきた新しいディレクターは、ネゴに対して1年限りの契約延長を提案して、給与もまるでプロ初年度の選手が受け取るようなものだった。それを2回続けて拒否するといった対立があり、ナントで過ごした最後の半年間はチームから除外されていた。それほどの過程を経て加入したローマでは一度も出場機会はなく、2年目にローンで所属したスタンダール・リエージュでも2試合に出ただけだ(余談だが、ここでもヴァンクールはチームメイトだった)。「ポルトからも興味をもたれていたが、トッティやデ・ロッシのことを想像したりして、ローマのことしか考えずにサインした。そうするべきでなかったのかもしれない」と本人は話す。ローマに保有権があったのは2季のみで、13-14の開幕前には完全移籍でチームを離れることに。これが彼のサッカー人生における大きなターニングポイントの一つだった。
新天地には選んだのは、ハンガリーにあるウーイペシュトというチーム。ネゴが2アシストしたスタンダール・リエージュの試合を見ていたロデリック・デュシャテレット(ウーイペシュトのオーナー)が獲得を願ったことがきっかけだった。しかし、ロデリックの父であるロランド・デュシャテレットが当時オーナーを務めていた影響で、わずか半年後にはチャールトンへの移籍が決まった。ネゴはロンドンに良いイメージをもっていたがクラブやリーグに馴染めず、そのまた半年後にはレンタル形式でウーイペシュトに戻った。たらい回し状態の中でベルギーのチームからの関心もあったが、デュシャテレットは「イングランドにいるよりも難しい状況になるぞ」とネゴに伝え、当初オファーをすべて拒否していた。選手本人にとっては余計な圧力でしかなかったが、それに屈することなく、オーナーの親子から遠ざかることを決意した。
ネゴはハンガリーのビデオトンFCに移籍した(現在はフェヘールヴァルFCというチーム名に変わっている)。ハンガリーに初めて到着したときはフランスやイタリアのリーグとの差に驚いたようだが、たしかにサッカーの質は素晴らしいとはいえないにせよ、ハンガリーやフェヘールヴァルFCにいることには安心感があると話す。「妻と2人の子どもがいて、継続して試合に出られることが良い生活につながっているので、金のためにロシアや中国に行く必要はない」。
ハンガリーでの生活はイングランドにいた時期を除いても7年半が経過しており、2019年にハンガリー国籍を取得した。2020年にはナショナルチームに初めて招集され、それ以降はすべての試合に出場中。「フランス代表になる可能性がゼロに近づいていることは分かっていたので、代表選手になれるチャンスに飛びついた」と語っている。ハンガリーは最終プレーオフに勝利してEURO2020の出場権を勝ち取ったが、その試合でチームを救ったのは間違いなくネゴだった。彼にとってはまだ4試合目となるゲームはEURO2020出場の可否を決定するもので、試合終盤までは対戦相手のアイスランドがリードしていた。ネゴがピッチに立ったのは84分の時点だったが、ゴール前の混戦から冷静に同点弾を決めたときは88分だった。その後、アディショナル・タイムに1得点を追加したチームは見事に本戦出場を果たした。今にして思えば、新型コロナウイルスによる開催延期がなければ、こんな風に再びロマニスタの目に留まることはなかったのかもしれない。何が起こるかは本当に分からないものだ。

ダニエル・デ・シルバ
【生年月日】1997年3月6日
【国籍】オーストラリア
【ポジション】攻撃的MF/左サイドMF
【在籍期間】-
【前所属】パース・グローリー
オーストラリアの1部リーグで15歳のときにデビューを果たしており、2013年当時で同リーグの史上最年少出場記録の保持者となった選手だ(二番目とするメディアも一部ある)。数ヶ月後に開催されたU-20のW杯では得点もしているが、飛び級の飛び級をしていた彼はまだ16歳だった。さらにはオーストラリアのフル代表に17歳で招集され、W杯予選でベンチ入りした過去もある。同年のアジア杯でも、登録メンバーの候補者になった。
ローマは迅速に接触して2014年夏には加入を内定させたが、成長のために1年間はオーストラリアに留まらせることを決め、パース・グローリーも1年後のローマ入団予定を公表。修行期間にあてられた翌シーズンをレギュラークラスで過ごして経験を積み、リーグ戦が終わる頃にもクラブは改めて別れを告げた。ここで重要なのは、この時点で契約が完了したわけではないということだ。
15-16のプレシーズンには約束通りにローマ入りを果たし、トップチームの選手たちとトレーニングした。出場しなかったが、ICCのレアル・マドリー戦とマンチェスター・シティ戦ではベンチに座った。オーストラリアが開催地となっており、彼にとっては特別な時間だったようだ。
ところが、8月になるとオランダのローダJCがデ・シルバと2年間のレンタル契約を結んだと発表した。交渉相手はローマではなく、パース・グローリーだった。外国人枠の関係でローマの獲得が難しくなり、契約が撤回になったといわれている。
新天地のローダJCでは重要な戦力になれず、レンタル期間を半年残した2年目の半ばにオーストラリアに戻った。現在でもそのまま母国でのプレイを続けている。

イスマイル・フマイダト
【生年月日】1995年6月16日
【国籍】モロッコ/オランダ
【ポジション】攻撃的MF/セントラルMF
【在籍期間】15-16 (冬) 〜 17-18
【前所属】ブレシア
オランダのトゥエンテ、ベルギーのヘンク、アンデルレヒト、イングランドのクリスタル・パレスといったトップリーグのチームをユース時代に渡り歩いた実績をもつ、オランダ生まれの有望株。現在はセリエBのコモに所属しているが、そこに入団するまでの所属歴には約1年間の空白がある。
イタリアに上陸したのは19歳のときで、2014年に当時セリエBのブレシアに加入した。チームの成績は芳しくなかったが、そこで最初のシーズンから主力選手に定着すると、1年半を過ごしてから15-16冬の移籍市場でローマが約300万ユーロを費やして獲得。常にレンタル移籍をしている状態だったのでローマの選手だった実感の強いファンは少ないかもしれないが、たしかにスター候補生の一人だった。近年優秀な選手を多く輩出しているモロッコ代表でも21歳で試合に出たことがあれば、ローマが獲る前にはアーセナルのトライアルを受けたこともある。
2018年3月、フマイダトが強盗容疑で逮捕されたというニュースが流れ、そのまま約10ヶ月間の刑務所生活が始まった。素行不良により、レンタル先のクラブで2ヶ月前に契約を打ち切られたばかりだった。ローマは契約を解消した。
そのあとに無罪判決が下り、外の世界に帰ってきた。フマイダトの車を借りた知人が窃盗したというのが真実だったが、キャリアに生じた1年間のロスが消えてなくなることはない。釈放されたときはサッカーのことが頭になかったと言っているが、当時セリエCに昇格したばかりだったコモが彼を求め、再出発が決まった。
コモでの1年目は主力とまではいえない存在だったが、16試合に出場した。2年目になるとレギュラーの地位をつかみ、セリエB昇格に貢献している。ローマからのレンタル先だったアスコリやヴィチェンツァでは出番に恵まれなかったため、最後のセリエB出場はローマ加入以前の2015年となっている。2000日を超える久しぶりのセリエB出場は目前に迫っている。経営破綻などで長く苦しんでいるコモを躍進させ、いずれセリエAの舞台に立つ未来もあるだろうか。
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